「図書館の本が読みたい!」と思うことがあります。本屋さんで買った本ではなく、あくまで「図書館」の本なのです。なぜそう思うのか。今回はそんな自分のココロを探求してみることにします。
真っ先に思い浮かんだのは、「無料で読める」ということ。自分のお財布を気にせず読みたいから図書館に足を運ぶ。しかし、「それはちがう」とすぐにその考えをアタマから追い払いたくなります。図書館の本だって、税金で買われているわけだから、けっしてタダではない――などといった理屈をひねり出すまでもなく、自分を「本にかけるお金を惜しむ人間」だとは思いたくない、という想いがあります。
次に考えたのが、「書店に並ぶのはあくまで〈商品〉、図書館にある本こそ〈知的財産〉」という理由です。図書館におさめられている本も、基本的には書店で売られている(いた)ものと同じはずです。書かれている内容はもちろん、読んでいるときの感覚は、図書館で借りても書店で買っても変わらないはず。ところが、なぜか図書館の棚に並ぶ本を眺めたり手に取ったりするときの感じと、書店のそれはどこかちがっているように思えるのです。その理由が、〈商品〉と〈知的財産〉のちがいにあるのではないか。
いったんはそれで納得したものの、まだ真実に半分しか届いていない気がします。なぜ書店が〈商品〉で図書館は〈知的財産〉なのか。
誤解を恐れずにいえば、書店で売られる本はとりあえず出版社が“お金儲け”のために世に放ったもの。一方で、図書館の本は“お金儲け”から離れ、市民の知的好奇心・教養を育むために厳選されたもの。そんな感じがするのです。
しかし、これではまるで書店が図書館よりも劣っている、と書いているようなものです(ほかの出版社への暴言でもありますね)。私も出版者の端くれとして、そんな結論に落ち着くのは本意ではありません。つまり、「図書館の本が読みたい!」と思うココロの奥底にある真実にはまだたどり着いていないようです。
では、真実とは?
しばらくアタマをひねり、ようやく“答え”らしきものをつかみました。それは、書店の本は「まだ誰にも読まれていない」のに対し、図書館の本は「すでに誰かに読まれている」ということです。もちろん揚げ足を取れば、「読まれていない」といっても、本は大量に印刷・製本されたものですから、その内容は誰かが読んでいるのだし、「読まれている」といっても、入荷したばかりなら誰も手をつけていないことになります。あくまで自分が目にし手に取ったところのその〈本〉が読まれていない/読まれていることが重要なのです。
私はつねづね、基本的に本は自分ひとりで読むもの、と考えています。「読書会」といったカタチで複数人で本を持ち寄って意見や感想を交換したりするケースはありますが、それでも本を読むという体験は極めて個人的なものであるはずです。極論すれば、自分がどんな本を読んでいる(いた)のか、他人に明かしてはならないとさえ思っています。
しかしながら、そんなふうに「読書は孤高の営み」だと考えながらも、読書をより知的・感興的な行動へと高めるには、“他人”の存在が必要なのです。
たとえばとても素晴らしい内容が書かれた本が手元にあるとします。読んでみると知的好奇心をくすぐられ、ココロを大きく動かされて、読み終わったあとも感動はつづく。ただし、その本はこの世に一冊しかなく、読んだのは自分ひとりだけ。現実にはありえない話でしょうが、そんな状況だったとしても、「素晴らしい読書体験だった」といえるかどうか。「いや、それこそ読書家の究極の理想だ」と考える人もいるかもしれません。でも、私は「この本をほかの人も読んでいる(これから読む)」と思えなければ、それは至高の読書体験にはならない、という気がしています。
「読書は孤独に行なうべきもの。一方で他人の存在を意識することも必要」。この矛盾を解消するために、本を読む人たちがゆるやかにつながる場をつくってみました。
そう。すでにお察しのとおり、そんな「場」が〈瑞乃会〉です。といっても、まだ始めたばかりで、ほんとうに「矛盾」を解決することになるのか、ひいては自分たちの幸福な読書を実現することになるのかはわかりません。
でも、とりあえず一歩を踏み出してみる価値はあるでしょう。
出版者として世に送り出す本を〈商品〉から〈知的財産〉へと昇華させるために。
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